餃子の王将 事件後について一言
今回の餃子の王将の事件をもとにして「事件の後の人々の反応について」感じることを述べます。
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事件の後に、消費者側の「餃子の王将」への対応は、2通りありました。
事件の後だから、
「食べに行こう」という人と、
「食べに行くなんて信じられない」という人。
「食べに行くなんて信じられない」という、自粛モードの人は、
「食べに行こう」という人にやや冷たい反応でした。
この件について。
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◆「追悼」の表現は、人それぞれ
ぼくは、事件後にお店に行くことを自粛しなくてもいいんじゃない、という側です。
今回の事件が起きたとき、お店に行くことを自粛するムードを作る意見が出ていました。
その、「お店に行くなんて信じられない」という自粛ムードが作られると、事件後にお店に行くこと自粛しない人は「信じられない!」と反応することが起こります。
でも、事件そのものと、その後にとる個々人の行動は、結びつけなくていいんじゃないでしょうか。
個々人が選ぶこと、意見、それはなんでもありでいい。だけど、「事件後にお店に行くなんて信じられない」という意見にまで、いかなくていいんじゃないかなと。
「追悼の表現」があるとしたら、その表現に決まりはないはずです。
「行くなんて信じられない」という人は、それが追悼の表現なのかもしれない。
でも、「お店に行くことを自粛しない人はダメ」みたいな見方はどうなんだろう
そもそも、自分自身と直接の関係がない人に対して、本当に心から菩提を弔うなんて、難しくないですか。
ぼくは、追悼の気持ちを本気で表すことは、非常に難しいと思ってます。
だから、「そんなときにお店に行くなんて!」とまでは、思えないのです。
お店に行くことを白い目でみるのは、ちょっと違う感じがします。
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◆ムードが、意見を作る
お店に行かない側の意見を見ると
「事件の後だから食べに行こうよ、と友人に言われた時、事件後になんでそんなこと言えるんだと思った」という人がいました。
そして、その意見を見て、それに乗っかる人も見受けられました。
自粛。
そもそも、誰が決めたのですか。
それ、ムードですよね。
本当に、自分で考えて決めたことですか。
なんとなく、そうしていなければいけないような空気に乗っているだけではないでしょうか。
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◆広く考える
「餃子の王将」に関係する人を思い浮かべてみますと
運営する店。
そこで働く人たち。
いつも通り食べに行く人。
それぞれ、いらっしゃいます。
そんな中で事件後に、お店に行く人を白い目で見たとしたら、その人たちの立場がなくなります。
それから、「お店に行かない」という人が増えたら、会社自体の運営すら危うい。
それは、追悼の表現と相反する行為ではないですか。
自粛、それ自体は悪いことはないです。
でも、自粛から出てくる行為や意見は、広く考えた上で、行うことが必要ではないでしょうか。
誰かの意見やムードに、流されてしまうことだけは、いいとは言えません。
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◆自分で考えよう
意見、行動、それは人それぞれあっていい。
でも、ムードに流されてはいけない。
自分で考えた上での意見や行いは、
たとえ、それが少数派のものだったとしても、自信を持って貫けばいいんです。
気持ちは、自分のものです。
P.S.
ぼくは、餃子の王将の関係者ではないし、会社自体の存命には個人的にまったく関係がありませんので、一応。
ではまた今度。