表現することを、恐れてはいけない
という事件がありました。
「Twitterで人生を棒に振らないこと」
のような論調の意見が、ネットをにぎわせていました。
この件について。
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◆「書いてはいけない」こと
解雇された原因は、差別的な内容があったからでした。
まず基本として、人を傷つける内容、差別的な内容は、たとえ冗談だとしても、書かない方が安全。
これは、グローバルスタンダードです。
だけど、、
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◆「表現」自体を恐れてはいけない
Twitterで、つぶやくことが問題になるニュースを見たら、
ネット上で表現する行為に少なからず「ためらい」を感じてしまいます。
「ネット上で表現することの怖さ」を見たら、
その怖さやマイナス面が、クローズアップされます。
それが、「表現はやめた方がいいかも!」とまでなる人も、少なくないはずです。
「ネット上で表現すると、問題になる事件が増えている」
→「自分もヘタしたら、表現によって取り返しのつかない人生にしてしまうかも」
→「もう、表現やめた!
という、恐怖の三段論法に、はまるかもしれない。
これ、ぼくは、断固として避けてほしいと願うことです。
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◆表現をやめたら、人生はつまらなくなる
感じること、
伝えたいこと、
思っていること、
大切にしていること、
意見や感想やユーモア。
自分自身が持つ、こういったものは、「自分のもの」です。
自分が自分である意義、です。
もし、それらを持つことをためらわなければならないなら、つらいです。
人生つまらないです。
自分固有のものを、持つなと言われるに等しい。
「表現をやめる」行為や意識は、
「自分であることをやめる」ことに通じる。
それ、つらすぎません?
つまらなくありませんか。
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◆誰も、表現はやめなくていい
人を殺すことがいけないことは、道徳的に誰でもわかります。
それと同じ感覚で、表現においても、言ってはいけないこと、
やってはいけないことはおおよそわかります。
その、良心や道徳さえ備えていれば、
表現を怖がる必要はないです。
少し言い過ぎたり、間違えたりするかもしれない。
でも、間違いや失敗なんて誰でもある。
あるに決まっています。
間違ったら、改めればいいだけです。
だから「表現をやめる•怖れる」なんてしなくていい。
自分の思いや考えや感性は、貫いていい。
これを、ぼくは言いたい。
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◆表現は、生きる意味そのもの
「表現すること」は、ぼくにとって多大な意味を含んでいます。
「表現する側」からすると。
•自分の正直な気持ちに向き合える。
•普段思っていても言えないことを言える。(日常生活で言いたいことをいう機会なんてごく稀)
•表現によって自分が自分でいられる。
一方で「表現を受け取る側」からすると。(こちらが超大切)
たとえばぼくは今ブログで、まだ見ぬ方々の文章を読んだり、素晴らしい景色や料理の写真を見たりすると
『そうか!』『スゴいな』『きれいだなぁ』と感じることがあります。
これです。
ここが、「表現すること」の大切な意味です。
誰かが表現したものによって「受ける側」のなにかが変わる。
ここに表現することの意義がある。
ぼくは、そう信じてます。
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◆だから、表現は、やめないでいい
「ネット上で表現したら、解雇されるよ」
「ヘタなことしたら、人生棒に振るよ」
どうか、表面上のマイナス面だけを見て、恐れないようにして欲しい。
ぼくは、
まだ見ぬあなたの表現のおかげで、静かに心動いているんです。
ではまた今度。