「責任感」がない人は、本来ひとりも存在しない
コンビニでコピーを取ろうとした時、
サイズを誤って印刷してしまうことがあります。
カラーだったらイタいです。
『50円損した!』となります。
たとえモノクロコピーでも、
ミスしたら『もったいない』と感じます。
一方で、会社で印刷ミスをした時。
あまり気にしていません。
たとえ何十枚ミスプリントしても、
損した感じはそこまでありません。
「もったいない」とは感じても、
そこまでイタいとは感じません。
ここに、責任感のヒントがあります。
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◆自分のことになると、誰でも責任感を持つ
なんで、コンビニでコピーをミスしたら『うわぁ、、もったいない』と感じるか。
それは、自分のお金だからです。
責任感は薄らぐのです。
会社で、何千万円の赤字を出しても、
従業員である人はそんなに実感が湧きません。
そんな時に、
会社のお金に対して責任感を持つことは案外難しいのです。
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別の例で言うと、
たとえば無一文になって、職さえも失って、
明日食べていくことすら危うい状況になったとして。
にっちもさっちもいかなくなった時。
それこそ食べていくために、必死で仕事を探します。
生きていくために、
本気になってがんばります。
『サボっちゃおう』『めんどくさい』『まぁ適当に』『あいつに任せとこう』
なんてこと、思うヒマもありません。
会社でぬるま湯生活の中に浸って
『まぁ適当に』といって無責任になるような精神ではいられません。
そんな無責任になったら、
現実的に生きていけないからです。
どんなに無責任に過ごしてきた人も、
自分の身の危険をリアルに前にした時、
本気で目の前のことに向き合うようになる。
言い換えると、目の前のことに責任感を持つようになる。
要は、責任感は、すべての人が本来持っているのです。
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◆追い込まれたら、自然と責任感を発揮する。ぬるま湯の中では無責任になる。
ここで「責任感」の定義とか意味の話は置いておきます。
言いたいことは、
もし、無責任である意識があるならば、
いま、ぬるま湯の中にいるのではないかということです。
自分を追い込んで考えたり、
ものごとに対して責任をもって取り組んだりしなくてもいい。
そういう状況なのではないか、ということです。
これは善悪の話でもありません。
ただ、自分や周りの人が責任感に欠けているとしたら、
そこまで追い込まれていないのではないか。
自分の身に関わることに直面した時、
人は誰でも強くなれるのではないか。
人間も命あるいきものだから、
簡単には死なない。
責任感の本質は、
きっと当事者意識の度合い。
ではまた今度。